井内誠司の学界時評

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zoom RSS 『日本の古代国家』はいかに時代と切り結んだか、又は切り結ばなかったか23-共産党綱領との関係・4

<<   作成日時 : 2017/06/07 23:08   >>

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前項の続き)

1.古代国家論への転換

(14)石母田古代国家論と共産党61年綱領(4)−61年綱領と石母田古代国家論・2−


 前項で述べた不十分さにも関わらず、石母田の(ア)〜(ウ)の党執行部への批判の意義は過小評価できないと考えるが、ここでは行論の前提として、
敗戦直後の40年代後半から「国民的歴史学運動」時までの
石母田の共産党と学問との関係についての認識
について述べておこう。

 この時期、
石母田が学問への批判・介入を党の「権利」と考えていたこと
は、石母田ー1950における以下の記述に明らかである(261〜2頁)。

 内容を適宜、要約すると、この認識の前提は、
「プロレタリアートの政治と学問の新しい段階」の特徴
「大衆」が参加する形で「両者(引用者註、政治と学問)が内面的に結合し得る点」に求めていること
である。

 かかる「結合」は、基本的に限られた天才のみに許されるものであり、プロレタリアートにおいてもそれは変わらないが、
「大衆」がそれに参加し得る点
がプロレタリアートの特徴とされている。

 かかる形の「結合」を保証する前提が
(1)政治が科学となったこと
(2)共産党が建設されたこと
の2点である。

 (1)は政治の理論的科学的把握であるが、時代進行の必然性についての認識が(前述の天才のみではなく)
「広汎な人々の共通の認識となり財産となる」こと
を可能にした。

 (2)の共産党は、プロレタリアートが、その政治的プログラムを実現するために建設した「単一の世界観と科学によって統一された党」であるが、
前記の政治と学問の「結合」を
「多くの個人への機能の分化と組織によって解決する可能性」をあたえるもの
とされる。

 以上の行論の末に、
「右のことが…なぜソ連においてみられるように、党が学問の批判に参加するか、また参加し得る権利を持つかということを説明するもの」
としている。

 行論全体が上記の「権利」の根拠と見られるが、直接にかかわるのは、当然ながら(2)の共産党についての認識である。

 石母田のかかる「権利」についての基本的論理を整理すれば、
(a)プロレタリアートの特徴である「大衆」の参加による政治と学問の「結合」を組織的に担うのが党であり、
(b)したがって、党は「学問の世界」も掌握するのであるから
(c)学問に介入し、批判する「権利」を持つ
ということになると思われる。
 
 この論理からは、
(A)前提になっているのが「科学的社会主義」の「進歩性」への強い「確信」であること
(B)その「進歩性」の主な具体的内容が「科学性」(「科学的社会主義」の名称から当然ではあるが)と「組織性」であること
(C)さらにその根底にあるのは「大衆」の「社会変革」への参加の力への「確信」であること
が知られる。

 しかし、石母田の党への「権利」の承認は(A)〜(C)のみに基づくとは思われない。

 他に
(D)社会主義建設における実践活動の苛烈さの認識
(E)それと関連する党執行部への高評価
があると考えられる。

 まず(D)について。

 上記のように政治と学問が「結合」した形態においては、学問的営為もまた実践活動の一環となる。

 しかし、社会主義革命に向けての活動はもちろんのこと、革命後の社会主義建設に向けての活動も過酷なものと石母田は認識していたと考えられる。

 その歴史学研究者における具体例と認識されているとみられるのが、
ポクロフスキー
である。

 ポクロフスキーはロシア革命後のソ連を代表する歴史家であったが、32年の死後、スターリン政権下で、党中央委員会とソ連邦人民委員部によって「誤謬」を指弾され、門下生は「粛清」された(以下、ポクロフスキーについては土肥ー2000、43頁以下などによる)。

 石母田は、石母田ー1950において「民主主義革命に『役立つ』ような歴史を書くことを要求」する
「卑俗なブルジョア的実用主義的傾向」に陥った実例
として、ポクロフスキーに言及している(240〜1頁)。

 上記の党の「権利」とは別個の文脈であるが、その「行使」の具体例であり、同一論考であることからも無関係とは思われない。

 多くは銃殺か流刑に処されたというポクロフスキー門下の悲劇について当時の石母田がどこまで知悉していたかは定かではないが、党(および国家)からの指弾が研究者としての「死」を意味することは認識していたであろう。

 ところで、ここで石母田がポクロフスキーに触れたのは、単に彼がかつてソ連を代表する歴史家であったという理由だけではなく、石母田自身の歴史家としての歩みにも深くかかわっていたと見られる。

 すなわち、横山不二夫は、石母田死後、34年の歴史学研究者への転身にあたって実践活動からの撤退を「同志」に認めてもらう際、石母田が
「俺はロシヤのポクロフスキーのような歴史学者になりたいんだよ。」
と語ったと証言している(横山ー1989)。

 当時におけるポクロフスキーへの傾倒は伊豆公夫の回顧にも見え(伊豆ー1972、264頁)、ソ連を代表する歴史家であった以上、石母田の発言はあながち実践活動から退くための方便ではないであろう。

 どの程度の重みがあったかは検討の余地があるとしても、ポクロフスキーが歴史学研究を志した石母田にとって目指すべき「モデル」であったこと自体は確かと見られ、とすれば、ソ連におけるポクロフスキーへの指弾は若き日の石母田への指弾でもあったと考えられる。

 とはいえ、ここでのポクロフスキーへの言及・批判は必ずしもソ連の共産党*1)への迎合であったわけではないと考えられる。

 石母田はポクロフスキーについて
歴史学を「過去に繰り広げられた政治」と見なした
とした上で
・歴史を「自己の階級的目的のためのたんなる手段と見なす傾向」
・「歴史を自己の都合の良いように一面的にひきつけてかんがえる傾向」
・「その階級の『前史』として理解し得るもの以外のものは、…『非合理的なもの』であって、…歴史自身の固有の生命と法則の展開として理解し得ない傾向」
などを指摘し、
「かかる反歴史的精神こそ変革的ブルジョアジーの本質的思考形式」
としている*2)。

 これはポクロフスキーの「抹殺」についての何らかの文献に拠ったものと思われるが、34年以後、歴史学研究者としての研鑽を積み、『中世的世界の形成』執筆時には
「われわれの祖国の古い歴史が決してそれほど貧困なものでない」(石母田ー1988、4頁)
との認識を得ていた石母田にとって、批判自体は首肯し得るものであったろう。

 しかし、ここでの問題はそれが
少なくとも研究者としての名誉の一切のはく奪という過酷な結果を招く
点である。

 石母田ー1950にはこの点についての批判は全く見られず、むしろ上記のポクロフスキーへの批判や
プロレタリアートは、かつての革命的ブルジョアジーと同じく変革的な立場をとりながら、しかもその変革の本質と内容がそれと根本的に相違するために、かかる反歴史的精神を継承することはできませんでした。」(243頁)
との「ブルジョア的実用主義的傾向」についての文脈の末尾に近い一文に見えるように、石母田はそれを受け入れていたと考えられる。

 恐らく、ここでのポクロフスキーへの言及は仮に自分が再びポクロフスキーのような「誤謬」を犯せば、同じ運命をたどることを辞さないという決意の表れと見られる。

 石母田にとり、ポクロフスキーの運命は
歴史学・歴史学研究者の
「革命に『役立つ』からそれが歴史的真実なのではなくして、歴史的真実であるから、それが革命に役立つ」
という
「プロレタリアートの立場」(以上、240頁)への「進歩」の過程
であったと見られるが、その道程はかくも過酷なものと認識していたと考えられる。

 それは言うまでもなく「プロレタリアートの立場」においては、上記のように学問的営為もまた実践活動の一環であり、その基本的目的である社会主義建設が苦難に満ちた事業と認識されていたからである。

 そして、
かかる学問的営為についての認識は上記の党の「権利」の承認と結びついていた
とみられる。

 すなわち、かかる過酷な「処分」は、被「処分」者と基本的対等な立場にある研究者が行うには問題があり、基本的にそれより上位の機関が担うべき問題となる。

 当然ながら、その機関は基本的には実践と学問の「結合」を担う党であろう。

 この点からも
党は上記の「権利」を掌握すると認識された
と考えられる。

(この項、続く)




*1)なお、ソビエト連邦共産党への改称は52年からで、石母田の論考発表時の50年における名称は全連邦共産党(石堂ー1980)。

*2)なお、論考は別であるが、175頁にも同趣旨のポクロフスキーについての記述がある。


〈参考文献〉

・石堂清倫「ソ連共産党」(『現代マルクス=レーニン主義辞典」社会思想社、1980年)

・石母田正『中世的世界の形成』(『石母田正著作集』5、岩波書店、1988年。初出は1946年。表3ーbS)

・石母田正「歴史学の方法についての感想」(『歴史と民族の発見』平凡社ライブラリー、2003年。初出は1950年。表3ーbU6)

・伊豆公夫「解題」(『新版日本史学史』校倉書房、1972年)

・土肥恒之『岐路に立つ歴史家たち』(山川出版社、2000年)

・横山不二夫「戦前・戦後の石母田君」(『石母田正著作集・月報』6、岩波書店、1989年)

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