井内誠司の学界時評

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zoom RSS 『日本の古代国家』はいかに時代と切り結んだか、又は切り結ばなかったか26-共産党綱領との関係・7

<<   作成日時 : 2017/10/04 21:59  

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前項の続き)
1.古代国家論への転換

(15)石母田古代国家論と共産党61年綱領(7)−61年綱領と石母田古代国家論・5−


 石母田が共産党に学問への批判・介入への認めた心理的背景として、
(ウ)「歴史学が戦争に利用されることに抵抗する勇気を欠いていたこと」への悔恨
を想定し得る基本的根拠は
津田左右吉を論じた石母田ー1949
である。

 この論考が上記の「権利」を承認した石母田ー1950と連関するのは内容上、明らかだが、まず、行論の便宜上、
石母田ー1950における上記の「権利」承認の論理展開
を整理しておく(260頁以下)。

 ここではまず、ヘーゲルが
(1)思想・哲学・学問の固有の性格を観想的・頽廃的傾向に求めている
とした上で、
(2)「実践的政治的人間」たる「英雄」「世界史的個人」をこれと対立させていること
が指摘される。

 これ自体は歴史的段階に規定された結果であり、「やむを得なかった」(261頁)とされているが、
(3)「プロレタリアートの政治と学問の新しい段階」の特徴は「観想的な哲学者・思想家」と「実践的政治的人間」との「内面的結合」にある
とされる(本項・23参照)。

 かかる「結合」が「組織」を条件の一つとして行われるが故に、党が上記の「権利」を持つとされるのは、本項・23で述べた通りである。

 すなわち、
上記の「権利」は
「観想的な哲学者・思想家」−学問ーと、「実践的政治的人間」との対立の克服の帰結
と位置付けられている。

 では、
なぜ「観想的」な学問は克服されねばならないのであろうか。

 当時の石母田のこの点についての認識を示すのが、石母田ー1949である。

 周知のように、ここで取り上げられる津田左右吉は戦前、過酷な弾圧に晒されながらも、戦後は「政治的=実践的なものからの乖離」(石母田ー1949、118頁)を露わにしている。

 石母田はその津田を七月革命後のランケと比較し、結びに
「根本的にはランケ的史観に立たれているところに津田博士の学問的悲劇があると考えられる。」(132頁)
と述べるように、
両者に通底する性格
を見出している。

 そして、この論考を一読すれば明白なように、その性格こそは
ヘーゲルの述べる「観想性」「頽廃性」
に他ならない。

 すなわち、
津田こそは「観想的頽廃的」歴史家の具体例
である。

 したがって、
なぜ、石母田が「観想的頽廃的」学問が克服されねばならないかと考えたか
は、
なぜ、津田を批判しなければならないか
という論理の中に一定度、見出せることになる。

 当然ながら、この点は石母田ー1949冒頭に示される。

 そこで強調されているのは
「無思想・無性格を内容とする実証主義」との戦い
である。

 かかる「実証主義」は「国粋的な歴史学」が支配的であった近代歴史学の形成過程において、
「歴史的事実を事実としてたしかめることにその学問的努力の大部分を傾倒せざるを得ない結果」
となったことの所産とされる。

 かかる「実証主義」の結果、日本の歴史学においては
「たしかめられた事実をいかに構成し、その内面的脈絡を探求して全体的法則的なものにまで高めるかという真に学問的思惟のはたらきを旺盛ならしむべき学風が成長せず」(以上、104頁)、
日本近代史学をみじめなものにしたとされる。

 かかる「実証史学」を克服するための「最良の敵手」とされたのが津田である。

 ただし、津田の「実証史学」は上記の「実証史学」と異なり、
「反歴史的反学問的な官府の歴史学にたいするたたかいと批判のなかからのみ成長することのできた実証主義」であり、
津田は
「たんなる学者ではなく真実の意義における近代的歴史家の名に値する人」
である(以上、106頁)。

 しかし、その津田の中の「観想性」「頽廃性」を問題にするからこそ、「敵手のミゼラブルな現実が批判者をも矮小にしミゼラブルにする危険」(105頁)を最大限、回避し、上記の戦いを実りあるものにすると位置付けられていると考えられる。

 では、
なぜ、津田を「敵手」として「無思想・無性格を内容とする実証主義」が克服されねばならないのか。

 それは(かかる)「実証主義」は「かえって学問としての無思想・無性格を表現するにすぎない」ばかりでなく、
「反面において容易に国粋的その他の俗悪な歴史観と結合することができた」(以上、104頁)
からである。

 すなわち、かかる「実証主義」との戦いの「現在の特質的な事情」は
「ふたたびファシズム的思想と結合し得るところの根拠」(105頁)との戦いであること
にあるとされる。

 以上から、石母田が
津田が体現する「観想的頽廃的」学問の克服を課題とする理由においては、
戦前の歴史学とファシズム的思想との結合が前面に出されており、大きな位置を占めていた
ことは明らかである。

 この点は、「反歴史的反学問的な官府の歴史学」による歴史学の戦争遂行への利用に何らなす術がなかった石母田の世代の研究者には当然であろう。

 特に石母田は東京帝国大学在学時に上記の「歴史学」の典型たる平泉澄一派の跋扈を目の当たりにしていたのである。

 とすれば、
上記の「権利」承認の心理的背景として(ウ)の「悔恨」を挙げることは十分に可能
と思われる。

 なお、(ウ)の「悔恨」は上記の「権利」行使の具体例である本項・23で述べた
ポクロフスキーについての行論
からうかがえる。
 
 本項・23で述べたように、ポクロフスキーが「抹殺」された原因は「卑俗なブルジョア的実用主義」に陥ったこととされているが、
かかる「実用主義」の石母田にとって最も具体的で身近な実例が「皇国史観」であったこと
は言うまでもない。

 本項・23で述べたように、
ポクロフスキーへの批判
は歴史学を志した当初の若き自分への批判でもあったのだが、
同時に「皇国史観」の跳梁とそれを重要な根拠の一つとする戦争遂行を防げなかった過去の自己への批判
でもあったのであろう。

 当然のことではあるが、
石母田の党執行部への上記の「権利」の承認はあの戦争の惨禍と不可分に結びついていた
と考えられる。

(この項、続く)


〈参考文献〉

・石母田正「歴史家について」(『歴史と民族の発見』平凡社、2003年。初出は1949年。表3ーbS2。なお、初出時の表題は「津田史学とランケ」)

・石母田正「歴史学の方法についての感想」(『歴史と民族の発見』平凡社、2003年。初出は1950年。表3ーbU6・67)

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